#22.3週間ぶりのメール
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「……瑛冶、数学教えてくれ」
放課後、俺が帰る支度をしていると、梓がフラフラになりながらやってきて、俺の肩をがしっとつかんだ。
「どうしたんだよ」
「昨日のテスト、俺、追試なんだよ……」
「だってあれ、追試は29点以下だけじゃないのか?」
「29点以下だったんだよ、俺は!」
梓は俺に8点の答案用紙を見せてから、「頼むよ」と縋るような声を出した。
「……あのテストって、追試に引っかかるようなモンじゃねえだろ。俺だって70点だぜ」
「お前は多分、頭いーんだよ!俺は悪いの!70点なんて絶対に取れねえの!」
梓は近くの机の上に答案用紙を置き、椅子に座る。しょうがないので俺も梓の向かいに座った。
4月末まではあっという間に過ぎ、もう少しで連休がやってくる。
最初のほうはゆっくりと進んでいた授業も、最近スピードを増した。まだ慣れないので放課後になるともうクタクタである。
梓とはクラスで一番仲良くなってしまった。他のクラスにもたくさん友達がいるらしく、一緒にいる俺まで顔が広くなった。
入学してから約3週間。桐島とはたまにメールで連絡を取っているが、あいつもなかなか忙しいらしい。
香坂とは―――なにも連絡を取っていない。
勉強の量が俺たちとは桁違いだろうし、どうメールしていいのかわからない。『元気か?』っていう内容のメールを送ろうとしたのだが、
どうにも送信できないままなのだ。
「あー、ホントわけわかんねえ。数学って誰が作ったんだろーなー?」
「知らねえよ、んなもん」
今回、梓が引っかかったのは数学の小テストだ。入学してから今までやったところを確認するというだけの簡単なテストだったが。
俺は梓の答案用紙を見て顔をしかめてみせた。こりゃあひどい。
「お前さあ、どうやったら8点なんて取れたわけ?教科書の問題できてりゃ7割は取れただろ」
実際、俺もテストの3日前から教科書の問題をちょっとずつやっていただけだ。
「うるせえっつの!俺が教科書なんて開くと思うか?」
「開き直るなよ」
「開き直ってねえっ!」
聞いたところ追試は明日の放課後らしい。梓がかなり焦っていたので、俺は仕方なくわかるところだけを教えてやることにした。
「言っとくけど、全然わかんねえ問題もあるからな。わかるところしか教えられないぞ」
「わかったわかった。恩に着るよ。今度なんか奢るから」
梓が調子よく言う。こいつが言うと、いまいち信憑性がないな……。
「じゃあ、簡単そうなところからやるか。まずここから……」
俺がそう言って数学の教科書を開いた途端、教室のドアが開いた。
「……あれ、まどかちゃん」
泣きそうになりながらノートにかじりついていた梓が顔を上げ、ぱっと顔を明るくした。
「二人とも、勉強?」
「うん。追試引っかかっちゃってさー」
梓が屈託なく笑う。ったく、笑ってる場合じゃないだろうが。
「実は、私も追試なんだよね。今まで数学の先生にわからないところ訊きに行ってたの」
「まどかちゃんも?」
「うん。26点」
椎名が恥ずかしそうに笑う。
「26点ならまだいいよ。こいつなんて8点だぜ」
俺が笑いながら椎名に言うと、梓が「おいっ、瑛冶、バラすなよ!恥ずかしいだろ!」と大声を出した。
「久保くんも追試?」
「いや、俺はこいつの勉強に付き合わされてるだけ」
「瑛冶なんて70点取ったんだぞ!だから俺の気持ちなんてわかんねえんだあ……」
梓は机に突っ伏して泣く真似をする。それを見て椎名がくすくすと笑った。
「久保くん、頭いいんだね。私も教えてもらおうかな」
「いや、頭いいっていうわけじゃないんだけど……」
俺は困ってしまった。本当に大したことないし、人に教えられるようなレベルじゃないんだけどな。
「お勉強会、私も参加しちゃおうかな」
「あ、いいよいいよ!3人でやろっか」
梓が嬉しそうに声を弾ませて、こっちに手招きする。
「おい、お前なあ……」
教えるのは俺なんだぞ。そう言おうとしたけど、椎名の柔らかな笑顔を見て思わず言葉を飲み込んだ。
ま、いいか……。
俺は二人にバレないように小さくため息をつき、また教科書を広げた。
「あー、疲れた……」
梓が大きくため息をついて、書き込みだらけになったテストの答案用紙を見る。
「これでなんとかいけるだろ。追試、何点取ればいいんだっけ」
「45点」
「じゃあ大丈夫だ。明日頑張れよ。まあ椎名は大丈夫だと思うけど」
椎名はさっき先生に教えてもらったと言っていた。それに飲み込みが早いので、俺が教えることはほとんどなかったのだ。
「わざわざありがとう」
椎名がノートや教科書をカバンにしまい込む。
気付けばもう6時を回っていて、外はうっすら暗くなり始めていた。
「こんな遅くまで、ごめんね」
「いや……」
けっこう楽しかった。まあ、梓が椎名にちょっかいばかりかけてたので、勉強がなかなか進まなくて困ったけど。
「けっこう暗いよな。まどかちゃん、家まで送ってくよ」
梓が席を立ったので、俺と椎名も席を立つ。教室の電気を消して、玄関に向かった。
「え、いいよ。悪いもん」
「遠慮しないでいいよ。家、近いだろ」
梓にしては紳士的だ。下心、丸見えだけどな……。
俺は心の中で苦笑し、二人に「俺はバスだから」と言った。
「え、久保くん、どこの中学校だったの?」
「南沢中。バスで15分だから、近いよ」
「そうなんだ。近くていいね」
椎名はそう言って笑った。
梓と椎名は駅の方へ、俺はバス停に向かうので、学校の前で別れた。
バスはやっぱり1時間に2本しかない。今は6時10分だから、次のバスは35分か……。
あと25分の待ち時間。どうしようかと思ったが、とりあえずベンチに座って携帯を開いた。
新着メール1件。
学校にいる間はマナーモードにしているので、ぜんぜん気付かなかった。
誰かと思いながらメールを開く。
―――あ……。
どきん、とした。
メールは、香坂から送られてきたものだったのだ。
『件名:久しぶり!
どうしてる?学校は楽しい?
こっちは勉強が忙しくてもう大変。やっていけるかちょっと心配です。
暇なときでいいから返事ちょうだいね』
たったこれだけのメールで、俺はバカみたいに喜んでしまう。
どうしよう。すっげえ嬉しい。
もう3週間以上会ってないんだよな、香坂と。
そう思ったら、なんだか急に会いたくなった。香坂の顔が見たい、と思った。
『件名:久しぶり
学校けっこう楽しいよ。変なヤツと友達になったから、毎日笑ってばっか。
勉強、大変だろうけど頑張れ。香坂なら大丈夫だと思う。
今度、暇なとき……』
そこまで打って、止まった。
嬉しくて嬉しくてしょうがないから、いつもより長くなってしまった。いや、それはいいんだけど。
『どっか行こうか』と無意識に打とうとして、手が止まった。
そんなこと言って、迷惑じゃないだろうか。でも、香坂からメールしてきてくれたってことは、俺のこと、別に嫌いとかじゃないん
だよな……?
ぐるぐると考えて、結局そう打つことにした。
学校離れたんだし、これくらい、べつにいいよな……。
決心が変わらないうちにメールを送信した。携帯を閉じて、黙ってバスが来るのを待った。
香坂からの返事は意外と早く、夜の9時頃に来ていた。
俺の『今度、暇なときにどっか行こうか』に対しての返事は『うん。どこ行こうか?』だった。
俺は叫びだしたくなったけど、隣の部屋にいる梨乃に何やら詮索されては面倒なので、衝動を抑えることにする。
どこ、行こうか……。
こんなに嬉しいのは久しぶりだ。脳裏に香坂の顔がちらついて、早く会いたいなとまた思う。
今の俺、まわりから見たら、すげえ怪しいだろうな……。
そうは思いつつも、顔がニヤけるのは仕方がないことだった。
だって、香坂とデートができるんだから。
あいつ、俺のこと、やっぱり嫌いじゃない……よな?
二人でどっか行くんだ。どこがいいかな。あいつが退屈しなさそうなところ。
俺はその夜、どこかデートするのにふさわしい場所を必死に考えることに専念した。
次の朝に寝坊して遅刻することなんて、まったく考えずに。