#20.4月6日
*
あいつ、ボロボロ泣いてんのかな……。
俺はため息をついて、空を見上げた。雲行きが怪しい。そろそろ降ってきそうだ。
大好きなマンガの最新刊だというのに、マンガの内容なんてほとんど頭に入っていなかった。
そんなことより香坂だ。あいつのことが気になる。
振られた……よな。当然だ。那津さんには、彼女がいる。
あの人は香坂をどんな風に振ったのだろうか。あの優しそうな那津さんのことだから、やんわりと振ったのだろうか。
香坂は那津さんの前で泣いたのだろうか。……それとも、那津さんの前では無理矢理笑顔を作ってるのだろうか。
あいつのことを考えたらたまらなくなった。
早く帰って来い。早く。
俺、今ならなんでも受け止めてやれそうなんだ。
「久保」
「わっ!」
突然背後から声がして、驚きのあまり情けない叫び声を上げてしまった。
「なによその叫び声!男のくせにっ」
やけに明るい香坂は、そう言って俺の隣に座った。
「悪かったな。叫び声なんか上げて」
「ほんとだよ。今の声、女の子みたいだったよ」
香坂は顔を上げない。だけど声だけは明るいから、すごく変な感じがする。
「……香坂」
「……」
返事がない。
「香坂」
「……」
雲行きがさらに怪しくなってきた。もう今にも降りだしそうな雰囲気だ。
「……ふられたよ」
「……うん」
やっぱり声だけは明るい。それが余計に俺を辛くさせる。
「香坂、無理しなくていい」
「……してないよ」
「別に、無理して明るく振る舞う必要なんかないだろ」
俺が言い終わったと同時に、鼻の頭にぽつりと水滴が落ちてきた。
雨だ。とうとう降ってきた。
「してないよ、無理なんて。だって、わかってたもん」
「……声、震えてるぞ」
「うるさいなあ、べつにそんなことないって……」
「泣けば?」
香坂の言葉を遮って、でかい声で言った。
少しずつ降ってきた霧雨が、香坂の髪を濡らしていく。俺は黙って傘を差してやった。
「……優しいね」
香坂が震えた涙声で言った。顔を上げて、俺に向けてにっこり微笑む。涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔で。
「笑わなくていいって」
見ているほうがつらいんだ。
思わず香坂から目を逸らす。好きなひとが泣いているところなんて、できれば見たくないのに。
「泣きながら笑ってる香坂なんて、見たくない」
俺まで泣きそうだった。香坂が嗚咽する。本当は声をあげて泣きたいのだろうが、我慢しているみたいだ。
「久保―――」
「え……」
傘が俺の手から滑り落ちた。
「香……坂……?」
「あんまり優しいから、甘えたくなった」
香坂は俺の肩に頭を乗せて、小さな小さな声で言った。
「あ、あの……傘、拾ってくる、俺」
俺は、香坂の突然の行動にカチンコチンに固まってしまった。とりあえず傘を拾うために立ち上がろうとする。
「いいよ。霧雨だもん」
そんな俺の気持ちを見抜いているかのように、香坂はそう言ってすこし笑う。
「よくないだろ。風邪でもひいたらどうすんだ」
「ひかないよ。それに、霧雨って好きなんだよね」
雨に濡れたい気分、というやつなのだろうか?香坂は灰色の空を見て、なんだか嬉しそうにしている。
まあ、いいか……。
香坂がものすごく近くにいる――というか密着している――ことにどぎまぎしつつも、傘を拾うのはやめにした。
「……私って、そんなにかわいい妹なのかな?」
香坂が、泣き止んでだいぶ落ち着いてきたころにそんなことを俺に訊いた。
「うーん……どっちかっつーと姉気質じゃねーの?怖いし、命令口調だし、うるせーし……」
「そういうこと訊いてんじゃないわよ。しかもうるさいって関係ないんじゃない?」
香坂は怒りながら笑っている。泣き笑いじゃない、いつもの香坂の笑顔がなんだか妙に嬉しい。
「まあ、弱いよな。お前は」
いまだに俺の肩に頭を乗せていた香坂は、「え?」と素っ頓狂な声を出して俺から離れる。
「……あー、肩が軽くなった。体重全部かけてたろ」
香坂は俺の軽口なんて聞こえてないみたいだった。「どういうこと?」と真顔で訊く。
「香坂、自分で強いって思ってるんだろうけどさ、お前は全然強くない。むしろ弱いって思う」
香坂の不安そうな顔とか、泣いた顔とか。俺は香坂の弱いところをけっこう知ってるんじゃないかって思う。
いつもの強気な香坂と、今ここにいる香坂。たぶんどっちも本当の香坂なんだろうけど、みんなは強気な香坂しか知らないんだろうし、
香坂も自分のことを強いと思ってる。
だけど、こうやってすぐに泣くじゃないか。
那津さんの話をするとすぐに泣き出す。たまらなく辛そうな顔をして泣いている。
いつも笑っている。俺と言い合ったりもする。でも強くない。一人のひとを想いすぎて、泣いたりもする―――。
「アンタからそんなこと言われるなんて、思ってもみなかった」
相変わらず止まない霧雨をさすがにうっとうしく思ったのか、香坂は疎ましそうに空を見上げた。
「別に、弱くないわよ。ぜんぜん」
「弱くないくせに、俺なんかに頼ったりすんのかよ」
俺がからかうように言うと、「……意地悪」と呟いて俯いてしまった。
「それとも、俺ってそんなに頼りがいある?」
「……そこそこね」
「なんだよ、すっげえ頼ってるくせに」
「べつに」
「素直じゃねえの」
俺と香坂は、顔を見合わせて笑った。バカみたいに笑った。
「忘れられるよ、お兄ちゃんのこと」
香坂がちょっと笑いながら言う。
「ふーん」
俺は興味なさげに相槌を打つ。本当は気になってしょうがないくせに。
「もしかしたら、ふっきれるのは案外早いかもしれない。妹ってはっきり言われちゃったもん。ショックだけど、そのぶんすっきりした」
「……そうだといいけど」
自分にだけ聞こえる声で、ぼそっと呟いた。
「なんか言った?」
「いんや」
香坂のことは、まだまだあきらめられそうにもない。
泣かれたり、密着したり、笑ってくれたり―――今日はどきどきの連続だけど、それは全部香坂のせいであって。
他の女の子が同じことをしても、こんなにどきどきすることは絶対にないと言える。
俺はきっと、これからも香坂しか見えない。
「いるんじゃねーの?那津さんよりいい男」
自分のこと言ってるわけじゃないけど。あの人、すごい性格良さそうだし、頭いいし……どうしたって勝てそうにない。
「お兄ちゃんにも言われた。姫桜はかわいいから、俺よりいい男いるって」
……オイ、振りながら口説くな。俺が言えないことをさらっと言うな。
俺は心の中で那津さんに毒づきながら、「自分でかわいいとか言ってんじゃねーよ」と笑いながら言った。まったく、本当に俺は素直
じゃない。
「はいはい。よーくわかってるわよ。自分がかわいくないってことぐらい」
「……かわいくないなんて言ってないだろ」
「え……?」
思っていたことがつい口に出てしまった。香坂が不思議そうに俺を見る。
「いや、だから、まあ……。そんなに悪くないってことだ」
ははは、と不自然な笑いでごまかす。なにが、『そんなに悪くないってことだ』だよ。本当はかわいいって毎日思ってるくせに。
素直じゃないから言えないのか、好きだからこそ恥ずかしくて言えないのか。……俺の場合、どっちもだな。
「お世辞だろうけど、ありがと」
香坂は嬉しそうに笑った。香坂にしてみれば、めったに褒めることのない俺が「悪くない」なんて言ったから、嬉しいのかもしれない。
本当は褒めたくてしょうがないのだが。顔を見るたびにかわいいって思ってるのだが。
素直に言えないもんだ。好きな奴にはとくに。
いつのまにか霧雨が上がって、雲間から光が差していた。
香坂の心境みたいだ、なんて思った。我ながらいい例えだ。
「晴れてきたね」
「ああ」
暖かくなったなあ。ぼんやりとそう思って、そういえばもう4月かと今さら気付く。
4月6日。高校の入学式まで、あと4日―――。
「そういえばさ、3年前の今日って、何の日か覚えてる?」
ふいに香坂がそんなことを言い出した。
「はあ?なんだよいきなり」
「いいから」
本当に変な奴だなと思いつつも、記憶を順番に辿っていった。3年前の4月6日―――。
「……あ」
「わかった?」
「中学の入学式」
「正解」
香坂がやわらかく微笑んだ瞬間に、さあっと風が吹きぬけた。
おそらく、また雨が降り出すのだろう。降っては晴れて、そしてまた降る。
だけどそれは紛れもなく春の風で、暖かくて、すこし切ない匂いがした。
出会ってから3年。
3年前の俺も、現在の俺も、変わらず同じひとに片想い中だ。しかも、結局進展はない。
中学に入学したころに比べれば、俺も香坂も、少しは大人になったのだろうか?
「もう高校生だよ。早いよね」
「つい最近、中学に入学した気がするんだけどな」
3年間、ずっと香坂のことばかり見てた。これからはそういうわけにいかなくなるんだろうけど、やっぱり香坂のことばかり気にしてる
んだろう。
つまるところ、俺はぜんぜん成長してないってことだ。
「これからもよろしくね」
香坂が俺に笑いかけたから、俺は「……こっちこそ」と言って目を逸らした。
「なによ、感じ悪いなあ」
だから、そんな顔して笑うからだってば。
こいつは、自分がどれだけかわいく笑うかわかってないんだもんな……。
もしかしたら、俺と香坂がこうして会えるのは今日が最後かもしれない。もう二度と会えないのかもしれない。
俺たちは恋人同士じゃない。ただの友達だ。だから、もう会う機会なんてないのかもしれない。
だけど俺は、今日を―――香坂と出会って3年目の4月6日を、忘れないと思う。
違う道を歩き出す俺たちに、これから何が待ってるのだろうか。
とりあえず、これからも、香坂がいてくれたら。
恋人になんかなれなくていい。そんなわがままは言わないから、また一緒に笑い合えたら最高だ。
これからも傍に香坂がいるならば、俺はそれでいいんだ。
新たな季節が訪れようとしていた。
3年間変わることのなかった俺たちの関係。
それは別れによって、ゆっくりと、そして確実に、変化していくのだ―――――。