#19.振り向かずにさよならを云う 姫桜視点
*
ばかだなあ、私。
なんで久保に、あんなこと言っちゃったんだろう。
あれから家に帰ってきて、今さら恥ずかしくなった。
中学1年生の春からずっと久保と友達だけど、あんなに久保との距離が近く感じたのは初めてだ。
あいつの前であんなに泣いたこと、今までなかったし……。
久保を『男の子』だって思ったのも、初めてだし……。
って、なに考えてるんだろ。
今は久保のことなんかより、お兄ちゃんに告白することを考えなきゃいけないはずなのに。
……告白、かあ。
あきらめようって何度も思った。でも不思議なことに、告白しようとは思ったことがない。
告白して、お兄ちゃんに『姫桜のことは妹として見てる』なんて言われたら、きっとあきらめられる。
大丈夫。だって私、お兄ちゃんへの気持ち、だんだん薄れてきてる―――。
その代わりに、ちょっとだけ気になる奴がひとり。
別に、好きなわけじゃない……と思いたいけど。うん。好きなわけじゃない。
だけど、気になる。
いつからかはわからないけど。
「お兄ちゃんとは、全然、タイプ違うんだけどなー……」
お兄ちゃんは、頭が良くて、優しくて、とても利口な人だ。外見的にもおとなしい。
久保は、頭はそんなに良くないし、すぐつっかかってくるし、私のことガリ勉とか言うし、髪の毛なんてちょっと立ててるし。
先生に、「学校にワックスつけてくるな」って怒られてたもん。でも結局、毎日ワックスつけてちゃんと髪立ててきたんだよね。
ほんと、バカ。
でも、あいつは優しい。クリスマスイブの日も、入試のときも、さっきも―――久保のおかげで元気になった。
久保は、なぜか私がピンチのときにそばにいる。まるで、頼れって言ってるみたいに。
ああやって優しくされたら、私は弱い人間だから、すぐ久保に頼ってしまう。
お兄ちゃんに告白するのだって、すごく不安でしょうがない。今まで俺のことそういう風に見てたんだ、ってお兄ちゃんに思われる
のが怖い。
だから久保に、あの公園にいてって頼んだ。あいつがいくら優しいからって、頼りすぎかなってちょっと後悔したけれど。
……いつ、言おうかなあ。お兄ちゃんに。
この調子なら、近いうちに言えそうだ。怖いけど、早く楽になりたいって気持ちが強い。
お兄ちゃんに告白する決心がついたら、久保に、メールしなくちゃな……。
「で、なんであえて今日なんだよ。夕方から雨降るらしいぞ。お前、天気予報も見てねーのかよ?」
「うるさいわね!今日にするって決めたの。絶対に今日がいいの」
「あのなあ。付き合わされる俺の身にもなれ!……まあ、一応、傘は持ってきたけどな」
意外に準備がいい久保は、なんと、マンガも持参していた。私が告白してる間に読むらしい。のんきでいいなあ、まったく。
「ま、頑張れ。結果が見えてるから、かえって言いやすいだろ」
「……確かに」
久保は私の頭をポン、と叩いて、ベンチに座った。私も久保の隣に、静かに腰を下ろす。
4月6日。高校の入学式まであと4日。
昨日の夜まで、久保と私は連絡を取らなかった。余計な心配をしないのが久保らしい。
「香坂も読むか?」
そう言って久保が私に見せたのは、いかにも小学生の男の子が読みそうなバトルマンガだった。
「げっ、なによこれ」
「面白いんだぞ、けっこう。小学生に絶大な人気があって」
……読者の中心は、小学生ってわけね。もう高校生になるのに、こんなガキっぽいマンガ読んで。
「私はこんなの読まないもの。てゆうか、マンガってほとんど読まない」
「どうせ小説ばっか読んでんだろ。それも、漢字だらけのヤツ」
久保がマンガをパラパラめくりながら、馬鹿にしたように言った。
「悪かったわね」
確かに私は小説しか読まないけど、読むのはごく普通の小説だし、漢字だらけのなんて読まない。まったく、久保は本当に失礼な奴だ。
「ま、香坂が少女マンガとか読むのも想像できねーしな」
「少女マンガは読まないけど、恋愛小説はたまに読むわよ」
「うっそ。お前が?全然想像できねー」
久保が豪快に笑い出す。
……なによ。私が恋愛小説読んだら、そんなに可笑しいっていうの?!
「そんなに笑うんじゃないわよ!」
「だって、笑うしかねーだろ?香坂が、恋愛小説……ぶっ」
「うるさいっ!」
あーあ、恋愛小説読んでるなんて、言わなきゃよかった。久保があまりに私のこと馬鹿にするから、ついムキになって……。
―――ていうか。
なんで私、ここに来てるんだっけ?
「お、そろそろ時間だ。那津さん、来るんじゃねーの?」
久保が携帯を見て言った。お兄ちゃんは、私の家に来てくれることになってる。
ああ、そうか。私、これからお兄ちゃんに告白するんだ。それで、自分の気持ちにケリをつける。
……いま、久保と話してる間、そんなこと忘れてた。
「あ、そうだね」
生返事をして、空を仰ぐ。空は青い。本当に、今日の夕方から雨が降るのかな。
そんなどうでもいいことを考えてから、一瞬だけ久保を見た。久保はもうマンガを読み始めている。
……自惚れとかじゃないとしたら。
こいつもしかして、私の緊張をほぐすために、あんな話を……?
「行ってくる」
私は静かに立ち上がった。心臓が口から出そう、ってこんな感じなのかな?すごく緊張してるから、自分の家まで辿り着けるかも心配だ。
「頑張れ。俺はここでマンガ読んでっから」
久保はマンガから顔を上げずに言った。
私が頼っても、迷惑そうな顔一つしないでちゃんと来てくれた。
きっと、私が帰ってくるまで、このベンチでマンガを読んでるんだろうな。
「……ありがとね」
こいつに面と向かってお礼を言うのは恥ずかしかったから、久保に聞こえないくらい小さな声で呟いた。
……遠い。
公園から家までは5分しかかからない。なのに果てしない道のりに思えた。歩いても歩いても着かないんじゃないかって本気で思った。
「あ、姫桜」
「お兄ちゃん……」
やっと家に着くと、家の前にお兄ちゃんが立っていた。お兄ちゃんも今来たみたいだ。
―――どうしよう。心臓が壊れそう。
数え切れないくらい顔を合わせてるはずなのに、死にそうなくらい緊張している。
ここから走って逃げたい。それで、久保のいる公園に戻って、何気ない話をしていたい。
……なんて、また私は久保に頼ってるな。
「どうしたの?いきなり、話があるなんて」
「うん……えっと、あのね」
言葉に詰まる。お兄ちゃんが不安そうに私を見て、「ここで大丈夫?」と言った。
「すぐ、終わるから」
落ち着け。深呼吸、深呼吸。
ずるずると続いてたお兄ちゃんへの想い。それを断ち切るために、決心したのに。
情けないことに、手の震えが止まらない。言葉がうまく出てこない。何かを話そうとしても、蚊の泣くような声しか出てこない。
しかも泣きそうだ。緊張して、緊張して、緊張して……。
「姫桜、具合でも悪い?」
「い、いや……」
このままだったら、何のための決心だかわからないじゃない。
自分の気持ちは、自分でなんとかしなくちゃ。叶わないのなら、ちゃんと自分で断ち切って……。
そうじゃないと、次に進めない。
「……好きだったの」
なんで過去形なんだろ?って、口に出してから思ったけど、そんなことゆっくり考えてる余裕はない。
「え?」
「……お兄ちゃんのこと……」
ちゃんと聞こえたかはわからないし、日本語にもなってないけど――とりあえず、言った。
「……え?」
「聞こえなかった……?」
「いや、そうじゃなくて……びっくりした」
お兄ちゃんが、呆気に取られたような顔で私を見ている。「こいつ、何言ってんだ?」って顔。
自分が急に恥ずかしくなって、なんだか叫びだしたくなった。だけど、ぐっとこらえる。
「ごめん……急に何言ってんだって感じだよね……」
「あ、全然そうじゃなくて。そんなんじゃないんだ」
すでに半泣きになっている私と、頭をポリポリ掻いているお兄ちゃん。なんていう光景だろう。多くの人が思い描くような告白の図、
そのものだ。
「その、嬉しいんだよな。なんか」
お兄ちゃんが、やけに大きな声で言った。
「え……」
「姫桜が、俺のこと好きっていうことが。ほら、従兄妹どうしだろう?そんなこと考えたこともなかったからさ。でも、こうして告白
されるのって、すごく嬉しいよ」
思ってもみなかったお兄ちゃんの言葉に驚きすぎて、お兄ちゃんをじっと見つめてしまった。お兄ちゃんは恥ずかしそうにしている。
「俺は、姫桜のこと、かわいい妹って目でしか見れないけど……でも、すごく嬉しい」
「お兄ちゃん……」
『かわいい妹』―――。直接言われるとやっぱり、その言葉が心に重くのしかかった。
言われるのを予想していたけれど、本人に言われると言葉の重みが全然違う。
「姫桜はかわいいから、俺なんかよりもいい男に出会えるよ」
お兄ちゃんが笑いながら言った。私の一番好きな笑顔だ。
「ありがとうな。俺のこと、好きになってくれて」
「……うん」
泣いちゃだめ、って思ったけど、涙はとめどなく溢れてきて、我慢なんてできなかった。
あきらめられる―――きっと、このひとのことを、好きじゃなくなる日が来る。
このひとの笑顔はなんて温かいんだろう。きれいに笑うわけじゃないのに、笑ってるお兄ちゃんはいちばん素敵だと思う。
きっぱり、振られたよ。
このあと久保に会って、笑いながらそう言えるだろうか?
「じゃ、行くね。これから友達に会うんだ」
私は手の甲で涙を拭って、わざと明るい声で言った。
「うん。気を付けてね」
「やだなあ、私、もう子供じゃないのに」
きっとこのひとの中では、私は一生子供なんだな。そう思ったけれど、胸はそんなに痛まなかった。
「俺の大事な妹だからね、姫桜は」
お兄ちゃんはそう言って、私の頭をポンポン叩いた。
その言葉、意地悪のつもり?―――言ってやろうかと思ったけどやめた。意地悪なんかじゃない。お兄ちゃんにとっての私、それを
きっぱり示しただけのことだ。
「じゃあね」
お兄ちゃんが私に背を向けた。歩き出す。ゆっくりと。
振り向かない。私が泣いてるのをわかってるから。
凍ったように固かったお兄ちゃんへの気持ちが、少しづつ溶けてゆく。
お兄ちゃんへの告白は、私の気持ちへの『さよなら』でもあった。お兄ちゃんへの『さよなら』でもあった。それに、次へのステップ
でもあった。
だから絶対、振り向かない。もし振り向いてしまいそうになったときは―――。
「……だから、あいつに頼っちゃダメだってば」
小さく呟いて、歩き出した。
久保は、ちゃんと待っててくれてるかしら?
お兄ちゃん。私はあなたのことが、とってもとっても好きでした。
私は振り向かずに、心の中でだけ、さよならを言った。