#02.理由
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あ、雪だ。
ふと窓の外を見ると、真っ白な雪がちらちらと降っているのが見えた。
今日から12月。期末テストも終わって、本格的に受験勉強に入らなければならない時期である。
眠い目をこすりながら受験勉強に励んでみたのだが、やっぱり俺に勉強は向いていないらしい。
数学の問題集を何問か解いたところで、手を止めた。
大体、2次関数ってのはどうしてこんなにわけがわからないんだ。
英語もよくわからない。不定詞っていうのは、なんで3つも意味があるんだよ。
……つくづく俺って、頭が悪いんだな。
そう実感すると同時に脳裏に浮かんできたのは、クラス一勉強のできる可愛げのない女の顔だ。
香坂は、今ごろ応用問題でも解いてるんだろうなあ。
俺は、すっげえ難しい問題をさらさらと解いていく香坂を想像する。
俺が「これでバッチリ!5教科の基本」という問題集を使っているのに対して、香坂は「トップレベル問題集・数学中3」という問題集を
使っているらしい。
前に見せてもらったことがあるが、俺の頭では解くことはおろか、問題の意味をよく理解することもできなかった。
香坂と俺の間にある壁は、やっぱり高校受験だ。
せめて桐島くらい頭が良ければ……と思うが、それは叶わない願いである。
もし同じ高校に行けたなら、どんなに良かったか。
俺が香坂と毎日会えるのも、ふざけあえるのも、“夫婦”だとからかわれるのも、あと4ヶ月間のことなのだ。
「あいつは、こんなバカ……相手にしないのか」
一人でぽつりと呟いてみる。
俺がバカだっていうのは、香坂が一番知っている。
数学で28点をとったときも、英語で32点をとったときも、わからない問題は先生ではなく香坂に教えてもらったからな。
どうしてかと訊かれると、理由は一つしかない。
ハゲかけた数学の教師よりも、結婚できずに四十路に突入した英語の女教師よりも、香坂の教え方の方がよっぽどうまかったからだ。
―――香坂が好きだから、という理由も、ないわけではなかったけれど。
そんなことを考えながら少しぼーっとして、また数学の問題集を開いた。
香坂のことを考えたあとは、なぜかいつも勉強がしたくなる。
心のどこかに、香坂に負けたくないなんていう気持ちがあるからなのかもしれない。
「久保!そっちいったぞ!」
「おしっ!任せろ!」
俺はパスを回してくれた奴にそう叫び、思い切りダンクシュートを決める。
それと同時にピーッと笛が鳴った。試合終了だ。
「久保、今日も絶好調だな」
次に試合に出るらしい桐島が声をかけてくれた。
「おう。桐島も頑張れよ」
「俺は久保みたいに運動できるわけじゃねーからなあ」
桐島はそう言って苦笑いしたけど、実際、桐島は運動もできる方だと思う。
4時間目の体育。腹は減ったが、バスケとなれば別だ。
俺は今年の6月の引退まではバスケ部に所属していた。だから、バスケは大好きだし、得意である。まあ、体育全般得意だと思っているけど。
「猿みたいに動き回ってたわね」
「……うっせえぞ、香坂」
男子のバスケの試合を見てキャーキャー叫ばないのはこいつくらいだ。
どの女子も大抵は、さっきのダンクシュートを見て黄色い声を上げてたはずなんだが。
「かっこよかったなら、素直にかっこいいと言えばいいだろ」
「調子乗ってんじゃないわよ。誰が久保なんかをかっこいいなんて思うものですか」
「えー!久保くん、かっこよかったよっ」
香坂が冷たく言い放ったあと、別の女子が会話に入ってきた。
「姫桜だって、ほんとはかっこいいって思ってるはずなんだけどなあ」
「理菜、余計なこと言わないで」
「そうかそうか、本当はかっこいいと思ってたのか」
「違うってば!」
冗談で言ってるのに、香坂は本気で否定している。
……なんつーか、傷つくな。うん。
「ま、香坂はあれか。男子のバスケ見てるよりも、勉強してた方がいいのか」
少し腹が立ったので言い返してみた。
「何よそれ。私がガリ勉だって言いたいわけ?」
「そうだけど」
「受験生が勉強して、何が悪いのよ」
「お前の場合、やりすぎだと思うぞ」
「アンタにお前とか言われると、すっごいムカつくんだけど」
「あっそ」
こんな風な口論を続けてると、やがて俺たちの間には火花が散ることになる。
お互い睨み合うものだから、誰も仲裁に入らないのだ。
「姫桜ちゃーん!次、試合だよ!」
俺たちが睨み合いを続けてると、誰かが香坂を呼ぶ声がした。
「次、試合だとさ」
「聞こえてたわよ」
香坂はそっけなく言って、コートに入っていく。
「ま、頑張れよ。俺を見習って」
香坂に聞こえるように大きな声で言うと、「大きなお世話!」という返事が返ってきた。
「夫婦みたいだね、久保くんと姫桜は」
さっき俺たちの会話に入ってきた女子――確か、香坂が理菜と呼んでいた気がする。苗字は八神だったと思う――が、呟くように言った。
「そりゃどうも」
「姫桜とはいつからあんな感じなの?」
桐島が出てる試合を見ながら、八神は訊いてきた。
「1年のときからかな。クラス、ずっと一緒なもので」
「すごいねー。そりゃ、運命だ」
「偶然だよ」
「いや、運命だね。だって久保くんて、姫桜のこと好きでしょ?」
「え……」
八神と話をするのはほとんど初めてに等しいはずだ。
ほぼ初対面のような女子から、なぜか自分の好きな奴を言い当てられてしまった。
「どうして、また……」
「なんとなくだよ、なんとなく」
八神はフフッと笑って言った。
「久保くんさあ、姫桜がなんであんなに勉強頑張ってるか、知りたい?」
「は?」
突拍子もなく八神が言い出したから、思わず間抜けな声を出してしまった。
「何を、突然―――」
「姫桜が岸浜南に行きたいのは知ってるよね?」
俺の反応を全く気にせず、八神は話を続ける。
「知ってるけど」
「岸浜南にさ、姫桜の好きな人がいるんだって」
―――え?
香坂の、好きな人?
「岸浜南の2年だって。だから姫桜、あんなに勉強頑張って……ってアレ?久保くん?どしたの?……そんなに驚いた?」
八神が心配そうに俺の顔を覗きこむが、全く気にならない。
『岸浜南にさ、姫桜の好きな人がいるんだって』
香坂の、好きな人が……岸浜南にいるなんて……。
ピーッ!
試合終了の笛が鳴って、桐島が汗だくでこっちに走ってくる。
だけど俺はずっと香坂を見つめたままでいた。
香坂の、好きな人―――。
必死に受験勉強に打ち込む香坂の姿を思い浮かべる。
あれは全部、その“好きな人”の為に―――。
俺は、何も考えまいとした。
考えたくなかった。
好きな奴に好きな人がいることなど、知りたくもなかった。